海辺に佇むヴォーリズ建築の「旧マッケンジー住宅」とは!?

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こんちわっす!

今回は、静岡県の海岸沿いに佇む洋式住宅に関する記事になります。

その建物は『旧マッケンジー住宅』と呼ばれているものの、多くの方が「マッケンジーって誰やねん?」という感じだと思うんですよね。。私も、ここに訪問するまではどんな人物か全く知らないどころか、名前すら初めて聞いたという感じ。

でも、このマッケンジー夫妻は静岡のお茶を世界に広めたり、夫人は社会福祉の方でも活躍されていて静岡市の名誉市民にも選ばれているんですよね!

ということで、このマッケンジー住宅に関することやマッケンジー夫妻とはどのような人物なのかについて、以下でまとめてみようと思います(*´▽`*)

本記事のポイント

・マッケンジー夫妻は、静岡茶を世界に広めた偉人
・パネル展示が多く、スタッフの方が背景を説明してくれる
・ヴォーリズによって設計されたヴォーリズ建築

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昭和前期に建てられた海辺の近代建築

今回のターゲットがあるのは静岡県静岡市。静岡県といえば、さくらももこだったり清水次郎長が知られているとは思うんですけど、マッケンジーさんのことも知っておいて損はないっす!

ただこの「旧マッケンジー住宅」はアクセス的にいい場所とはいえないんですよね。。

場所はここなんですけど、公共交通機関ではちょっと行きづらい場所ですし、海沿いの国道160号線を車で走ればたどり着けるんですけど、なかなかマニアックなところですよね。。一応、みなさんが学校で習う登呂遺跡が多少近くにあるものの、観光地とは言い難い場所なんすよね〜〜。

そんなちょっとアクセスが悪い場所ではありますが、最近はワイパーの調子が悪いというポンコツマイカーを運転して到着!

堂々たる門構えで、ちょっと入りづらいようには見えますが、ここは難なく進んでいきます!

敷地は結構広めで、庭が異常に広いというね!

ゴルフやキャッチボール、さらには軽いバッティングの練習もこなせるほどの面積ですが、芝生が広がってるだけで何かに使われている痕跡はないみたいっす。

1940年に建てられた洋風の住宅

んで、こちらが1940年に建てられたマッケンジーの住宅です。

以下に館内の詳細をまとめておきますが、抑えておきたいのはこれが建築界では誰もが知るヴォーリズによる設計、いわゆるヴォーリズ建築という点ですかね!

旧マッケンジー住宅の概要
設計者:ウィリアム・メレル・ヴォーリズ
竣工:1940(昭和15)年
構造:木造地上二階、地下一階建て 塔屋(望楼)付・洋瓦葺
延べ床面積:606.21㎡
建築面積:342.67㎡

ヴォーリズ建築は、現在でも全国に幾らか残されており、琵琶湖周辺や軽井沢、あとは点々と現存している感じでしょうか。知の冒険では、最近だと北海道の北見市に現存する「ピアソン記念館」を取り上げていたりします。

あと、構造の所に「塔屋(望楼)付」と書いてますが、それはこれね!

マッケンジーさんは天体観測が趣味とのことで、そのための塔屋を最上階にくっつけたそうですよ★

入り口の扉が独特

こちらが入り口の玄関になるんですが、さすが洋風建築。ドアの形にアール(円)があるなどちょっと独特ですね。

では、中に入ってみましょう!!

どこか懐かしい匂いがした・・

館内はこんな感じ!

匂いや雰囲気から、結構昔のというかおばあちゃん家に来たかのような錯覚に陥ります。私が訪れた2021年10月の時点では結構痛みも多いようで、雨漏りや壁が剥がれてたりなど、所々に老朽化による欠陥が見られました。

館内には一人スタッフの方がいて、この建物やマッケンジー夫妻の歴史について解説してくれました~( ̄▽ ̄)

ということで、まずは「マッケンジー夫妻とはどんな人物なの?」という点から学んでみることにしましょう!

静岡茶を世界に広めた外国人夫妻

マッケンジー夫妻
左:夫のダンカン
右:妻のエミリー

マッケンジー夫妻は共にアメリカの方でありますが、日本にやってきたのは1918(大正7)年のことでした。夫のダンカンさんが32歳、奥さんのエミリーが30歳の時に、静岡のお茶の貿易の関係で日本に来日したのです。

静岡県というと、ミカンやお茶が知られていますよね。このお茶に関しては、大井川を越えたい方をおんぶして生計を立てていた川越えの方々が失職した際に、開墾した牧之原に入植してお茶の栽培が盛んになったみたいな歴史があるわけですが、清水地域でお茶が本格的に栽培されるようになったのは明治初期のこと。

元々、静岡市で作られたお茶は牛車、荷車で清水港に運ばれ、その後、船で横浜港まで運び外国へ輸出していました。まだ清水港が開かれていなかったため、清水から直で外国へ輸出することができなかったわけです。

ただし、その後に東海道本線が開通すると、横浜港までの運搬は清水港から運ぶのではなく汽車で運ばれることになったわけです。これにより、海上輸送業者は大打撃を受け、周辺の港は衰退。そこで、静岡の茶業関係者や清水港の運送業者は清水港からの直輸入ができるようにと運動を起こし、1899(明治32)年に、清水港は全国22港の一つとして外国貿易の開港場に指定されたのです。

多くの外国茶商が店を開いた清水港

明治32年に清水港が開港場に指定され、再製工場の整備が進んだことで、貿易輸出の中心は静岡市へ移行し始めました。1912(大正元)年までには横浜や神戸の多くの商社が静岡へ移転。静岡市内には多くの外国茶商が店を開き、外国人のバイヤーたちが闊歩する国際都市となっていったのです。

静岡の外国茶商と芸妓(浮月楼)

そういった流れで、静岡にマッケンジー夫妻がやってきたわけですね!

夫妻はお茶の買い付け担当で一年で帰国するつもりだったものの、アーウィン商会の支店長にもなった関係で、静岡市内にある葵区西草深町にあった会社の社宅に22年住んでいたようです。

ところがです、夫のダンカンには喘息の持病があったんですね。。そこで、「療養に良い場所へ暮らしては?」となり、海風が当たる場所として今の場所が選ばれたそうです。

今の場所に住宅を建てた理由
・海風が渡る場所が良かったため
・富士山が見えるため
・母国のアメリカにつながる海が見えるため
・天体観測が出来るため

スタッフの方からも「なぜこの場所に建てたのか?」に関して質問したところ、上記の4点が主な理由とのことです。神奈川の湘南もかつては結核の療養所が多く建てられた理由は温暖で療養に適しているからであり、茅ヶ崎には「東洋最大級のサナトリウム」といわれた南湖院があったりしまして知の冒険でも記事にしたことがありましたな~。

そして、現在建っているこの場所に、自身の家を建てたというわけっす。

と、こ、ろ、が、、、

1940年に建てたわけですが、翌年の1941(昭和16)年12月8日には太平洋戦争が勃発してしまうことに。。

アメリカは敵国ということで、アメリカ官憲より度重なる帰国命令があったにもかかわらず、マッケンジーはそれに応じませんでした。が、1943(昭和18)年に渋々帰国。。せっかく家を建てたのに、わずか二年暮らしただけでここを去らなくてはいけなくなったのです。

住友金属の幹部の住宅に!

太平洋戦争の勃発でマッケンジー夫妻が帰国した後、この土地と建物は国が没収することになります。

没収されてからは、住友金属の幹部の住宅となるんですが、これには登呂遺跡が発見された場所に戦闘機のプロペラ部品を作るための軍需工場を建てるために、住友金属の幹部たちが暮らしていたというわけです。

復元された登呂遺跡の住居

登呂遺跡って、皆さん学校の教科書で習いましたよね!

登呂遺跡発見場所に軍需工場があった

この登呂遺跡は、発掘した際に遺跡の痕跡だけでなく住居跡・倉庫跡などの居住域と水田が一体となって確認されたことでこうして全国的に知られるようになったわけですが、ここは軍需工場を建てる際の調査でたまたま発見されたわけっすね。登呂遺跡に関しては、また別の記事で詳しくまとめたいと思うので、このくらいで話は終わりにします!

そして日本が太平洋戦争に負けると、この住宅は接収されてCIAのベースキャンプとなるも、再来日して再度マッケンジー夫妻に明け渡すことに。

しかし、夫のダンカンはひどい喘息を患わっており、1951年(昭和26)年に 66歳で亡くなることになります。

静岡県名誉市民第一号に!

マッケンジー夫妻には子供がいなかったため、夫のダンカンさんが亡くなるとエミリーは一人静岡に残される形となりました。

しかし、彼女は母国には帰らず社会福祉活動を続け、その後も静岡の自宅に住むことを決意するのです。

エミリー夫人にまつわる数々の品

エミリー夫人は、来日してから50年もの間、静岡市の茶業振興や社会福祉活動、日本赤十字奉仕活動などの発展のために私財を投じて貢献。特に恵まれない子供たちには、物心両面にわたり支援を続けました。

こうした功績が認められ、エミリーは1959(昭和34)年に静岡県名誉市民第一号に選ばれました。

エミリーは、夫ダンカンの茶貿易の仕事を手伝う傍ら、赤十字事業をはじめ静岡の社会福祉活動に積極的に関わっていきます。

エミリーはあらゆる災害や不幸から人間を守ろうと奉仕活動に没頭。その中でも代表的な活動が「静岡市赤十字奉仕団」の養成として1955(昭和30)年から10年ほど自宅を開放して、救護法、指導者講習会、いろんな研修会を開催したのです。

エミリーが受賞した静岡市名誉市民賞
晩年のエミリーの写真

そうした献身的な活動を続けるも、1972(昭和47)年に母国へと帰国し、その翌年に86歳で亡くなることとなります。

というように、マッケンジー夫妻は静岡県のお茶を世界に広げただけでなく、夫人においては社会福祉活動にも貢献した方だったんですね。

実はヴォーリズ建築なのだ!

メンソレータムでお馴染みのヴォーリズによる設計

そんな夫妻が暮らしていた住宅は、塗り薬であるメンソレータムを日本に広めたことでお馴染みのウィリアム・メレル・ヴォーリズによる設計なんすね。

まだまだ全国にたくさん残っているヴォーリズ建築

ヴォーリズ建築って今でも結構な数が国内に残っていて、さらには朝鮮半島にも何軒か残ってるんすね!

竣工時期と「HOMAM」と刻まれた碑があった

この建物をヴォーリズ氏に依頼したマッケンジー夫妻は、この建物を「HOMAM」という愛称で呼んでいたそうです。

「HOMAM」とは、アラビア語で「ペガサス」を意味するようで、その他には「おもてなし」という意味も持っているとのこと。天体観測ができるこの住宅をマッケンジー夫妻は大変気に入っており、多くの来客を迎えています。

上の写真に写ってる碑は、庭にあるやつっす。

旧マッケンジー住宅

建物の外観はスパニッシュ様式でデザインされており、これは米国西海岸を中心に1920年代に流行したようで、ヴォーリズ建築事務所が最も得意とする様式でした。

外観を見てもわかるように、スパニッシュ様式の窓は一般的にアーチが多いですが、窓のデザインに多くのバリエーションがあるわけです。

かなり広めな食堂

旧マッケンジー住宅の一階には食堂があって見学できるんですけども、ここにヴォーリズに関する説明パネルがたくさん見られます。

そのヴォーリズのこだわりが垣間見えるのが台所。

例えばこんなこだわりが

ヴォーリズはまず始めに台所を設計するようにと言いました。なぜなら、台所は家族全体の”健康”の鍵を握っているから。必要な設備を効率よく使えるように配置することが、設計の要点であると言ってるんですね。

この建物は、マッケンジー夫妻がヴォーリズに依頼したもののその経緯は不明。とはいえ、夫のダンカンに喘息の持病があったため、健康に暮らせる住まいづくりにヴォーリズが長けていたことが要因だったかもしれないですね。

調理に必要な道具を使いやすい場所や大きさに合わせて収納でき、造り付けの棚や引き出しもたくさんある造りになってます。

コンロなどは、当時最新の家電が設備です。

メーターやスイッチがありますが、どれが何を意味してるのかさっぱり。。

食堂の奥にある日光浴室

一方、こちらは食堂の奥にある日光浴室で、張り出した八角形の空間は日光が入るだけでなく風通しも良いので、家族の第二の居間、さらにはサンルームとしても使われていたと考えられているようです。

確かにこの空間は、館内の中でもとっても明るい場所。こうした場所で読書や作業をすると、はかどりそうですわ!

では、ちょっと記事が長くなってきたので、一旦ここでページを区切ることにしますか!

このページでは、マッケンジー夫妻や建物の歴史について紹介しましたので、次のページではまだこのページで紹介しきれなかった館内の部屋をバシバシ載せていきたいと思います(*´▽`*)

続きはこちら!和洋折衷なヴォーリズ建築の内部とは!?
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