なぜここに?神奈川県大和市にある台湾亭に秘められた歴史とは!?

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台湾少年工と高座海軍工廠

台湾少年工がはるばるやってきた高座海軍工廠は、戦時下の資材不足もあって彼らを受け入れる準備が十分にできていませんでした。。そのため、彼らは即戦力として駆り出され、高座海軍工廠だけでなく高座郡を経由して全国の航空機製造現場にも派遣。日本海軍の第一線で活躍する海軍機のほとんどを手掛けたんですね。

高い技術、仕事への忠誠心、全員が独身という身軽さもあり、台湾少年工は各地で歓迎され引っ張りだこだったのです。

そんな台湾少年工の主な派遣先と勤務先は次のようなものでした。

台湾少年工の主な派遣先と勤務先
・横須賀海軍航空技術廠
ロケットや特攻兵器「桜花」の研究開発。
・土浦海軍航空廠
昼夜兼行で故障期の整備。
・大村第21空廠
マスプロ方式による零式水上機の製造。
・三菱重工業・名古屋航空機製作所
零戦、雷電、一式陸攻、紫電改の生産。
・中島航空機製作所
零戦、銀河、月光の生産。
・川西航空機製作所
雷電、紫電改の生産。
・高座海軍工廠
雷電の生産。各地の工場が爆撃で壊滅状態になると、派遣先から帰された多くの台湾少年工がここで終戦を迎えた。

しかし、台湾少年工の方々が日本に到着した時は、既に戦局がやべぇ状態。。1944(昭和19)年6月16日には北九州で初の本土空襲も発生。台湾少年工たちが働く航空機を製造する工廠は、敵の最優先の攻撃目標だったわけです。

台湾少年工たちの食事風景
引用元『台湾少年工と第二の故郷』

そうした状況下でも、飢えと寒さ、爆撃の恐怖と戦いながら派遣された各工場で彼らは懸命に働きました。

厳しい環境の中でも、特にきつかったのが食糧不足。育ち盛りでいつも空腹であり、そもそも台湾と日本の食生活の違いなども苦労したポイントでした。

少年たちは故郷から送ってもらった砂糖や菓子などを付近の農家で食べるものと交換していたり、中には昼休みに山の中でカエルを捕まえてこっそり焼いて食べたりもしていたほど。

寒さに関してもなかなか苦労したようで、彼らにとって日本の冬は大変厳しく、雪を見るのも初めて。そして、多くの方が”しもやけ”に悩まされたと語っていたという。

そんな中、雷電を製作し続けたものの太平洋戦争は終戦。

終戦から翌年一月に帰還するまで、全国に派遣された少年工たちは高座郡の寄宿舎で不安と焦燥の日々を送りました。一時的な混乱があり、彼らによって資材倉庫が襲われたこともあったが、それも大ごとにはならず、彼らは帰国していきました。

台湾高座会の懇親会
引用元『台湾少年工と第二の故郷』

その後、台湾では少年工らによって結成された同窓組織である台湾高座会が誕生。1993(平成5)年6月9日には、台湾少年工1,300名が50年ぶりに揃って大和に里帰りしたそうで、大々的な懇親会も開催。

この組織は今でも存続しているようで、台湾少年工が日本で働いていた歴史は今でも語り継がれているようです。

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靖国神社へも合祀されている

英霊の方々を祀る靖国神社

そんな台湾少年工の方々のうち、靖国神社には52名の少年工の方々が合祀されてもいます。靖国神社の合祀というと、A級戦犯が合祀されているということで、毎年のように首相参拝に関して賛成反対でやかましくなることでも知られていますがね。。

戦時中、神奈川県の高座海軍工廠では、数次にわたる空襲に見舞われたことで台湾少年工にも多くの戦没者が出たのです。それは高座にとどまらず、彼らは各地の軍需工場にも派遣されていたため、名古屋、鳴尾(兵庫県)、大村(長崎県)などで犠牲になった方も多かったとのこと。

この地で戦闘機を作り、台湾へ帰ることが出来ずに亡くなった彼らですが、靖国神社に合祀されているということで、それだけ彼らは日本に多大なる貢献をしたことなんでしょうね。

善徳寺に建立された慰霊碑の話

あともう一つ、先ほど高座海軍工廠の名残りとしt芹沢公園とか廃線跡を紹介しましたが、台湾亭の近くにある善徳寺というお寺にも、彼らを祀る慰霊碑が建てられているんですね。

寄宿舎の近くにある善徳寺

結構大きな敷地を有するこのお寺には、台湾少年工たちの寄宿舎が近くにあったこともあってか少年工に関連する話がたくさんあり、空襲などで戦時中に亡くなった50人あまりの少年工たちの法要も行われた場所なんですね。

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戦没台湾少年の慰霊碑

そして、台湾少年工に関する碑が善徳寺の境内にありましてですね、、こちらは「戦没台湾少年の慰霊碑」という碑。

高座海軍工廠で海軍の技手(ぎて)であった早川金次(はやかわ・きんじ)さんによって建てられたんですが。早川さんは、空襲の犠牲となった少年工を目の当たりにして、その無残な姿を悲しみ、戦後に私財を投じて終戦から18年後の1963(昭和38)年11月に建立したもの。

この慰霊碑、早川さんの思いから建てられたものの、これが契機となって、来日する台湾少年公の人たちは必ずこの善徳寺を訪れるようになり、23回忌、27回忌、33回忌法要のときも、台湾から大勢が参列して盛大な供養が行われたという。

今でもこうして維持管理されている

この辺の話は善徳寺の方に少し話を伺うこともできました。今でも、こうしてお花が添えられていますが、これはお寺ではなく別の関係者の方が日々きれいに管理しているのだという。

つい最近も、少年工だった本人が台湾から訪問してきてこの碑を拝んだり、この辺の街並みを見て懐かしんだという。戦局が苦しい最中に日本へやってきて、厳しい環境下働かされた日本であっても、「大和市は第二の故郷だ」という方も多いとか。

少年工の方々が台湾へと帰還したのは終戦翌年の一月。戦時中もだが、終戦から帰国までの間であっても寄宿舎で不安と焦燥の日々を送っていたようですが、、それでも再びこの地を訪れて懐かしむのには、彼らにしかわからない様々な思いがあるんだろうな。

台湾亭は台湾からの贈り物だった

そして、話はようやく台湾亭へ!

大和市における台湾高座会の歓迎記念大会の席上で、李雪峰会長から井上大和市長へ贈り物が贈呈されることになりました。

それが、台湾風のあずまやである「台湾亭」だったのです。

大和市は李雪峰会長からの好意に応え、かつて台湾少年工六名が終戦直前に銃弾に倒れた場所の近くを建設場所に選び整備すること!

ところがどっこい、最初は建設のための資金集めは順調で台湾からは建築の専門家が来日したものの、いざ建設となるといろんな問題が浮上することになるのです。。

建築中の台湾亭
引用元『台湾少年工と第二の故郷』

セメントの乾き具合が台湾と異なったり、資材が台湾と日本で違いがあったり、価格が見込み以上に高かったり、働き手の確保が難しなどなど。。まっ、仕事しててもだいたい最初に見積もった工数通りにはいかないものですよね( ;∀;)

私もシステム開発をしていてそういう局面を味わっておりましてですね、最初はうまくいってると思っていたものの、後々になって考慮漏れが次々と出てきて崩壊するってやつですww

そしてこの台湾亭、発案者だった李会長と一緒に来た台湾の労働者で建設していたものの、近くで働いているフィリピン人よりも自分たちの賃金の方が低いことが判明して台湾へ帰国するという事態まで。。

ってことで、結局は李さん親子だけで全ての仕事をすることになってしまいました( ゚Д゚)( ゚Д゚)( ゚Д゚)

四年かかってようやく台湾亭が完成

そして、もともとは一年以内の完成だったはずですが、結局四年もかかっちゃったみたいっす( ;∀;)

会社で納期が四年も延びたら、マジで怒号が飛び交うレベルかもしれないですが、、こういう場合はそこまでにはならんですかね。。

完成した後、1998(平成9)年10月22日には台湾高座会から大和市への台湾亭引き渡し式も行われることになり、現在に至ります。

無料で鑑賞できる

現在の台湾亭はこんな感じになっております。大和市が管理しているようで、柵で覆われていて近寄るのは時間が決まっているものの、無料で鑑賞は出来るようです。

とはいうものの、園内にはだ~~~れもいない。。

この柵だけを開け閉めするときだけ、役所の人間がやってくる感じなんかな??

ちょっと建物に近づいて見てみましょう!

色合いは首里城にもある朱色ベース。基礎六角形で幅十メートル、柱六本、屋根の尖端まで高さ十メートルの設計。

台湾高座会のイカリのマーク

階段にはこんな碇(イカリ)のマークがありますが、これは何を意味してるのか??

後々調べたところ、これは台湾高座会のマークだという。今でも台湾ではこのマークがついたバッジを付けている方は、「高座帰り」と言われ一目置かれるとのこと。

四年もの歳月をかけてこの建物を建てられたのに、ポツンと広場に建っているだけでは正直寂しい気がしました。。この台湾亭の存在を、大和市民はどのくらいご存知なのでしょうか。

この前を通り過ぎても、「何だ、あれ??」って感じでみんな素通りしてそう。。

一応、超簡単な説明書はありますが、あるのは本当にこのくらい。

という感じで、台湾亭自体は公園にポツンと建っているだけの結構寂しい感じではあるものの、この建物が建てられる背景には上記で説明したような様々な物語があったんですね。

今回の記事は善徳寺の方には話を伺ったものの、基本は本や資料をベースにして書きました。本当は少年工にゆかりのある方の声を聞いたりとか出来たらな~とも思いましたけど、そこまではできませんでした。。

今回の記事、主人公は台湾亭だったものの大半がその背景に関する内容をつらつら書いた感じになりましたが、今の私では調べれるのはこのくらいかな。

おわりに

しかし、大和市にはそんな物語があったとはな。。この建物の存在はGoogleMapを見ててたまたま発見したわけですが、かつてこの地で台湾からやってきた少年たち8,400人が厳しい環境下のなかで働いていたとは。。

神奈川県は今までいろんな場所を調べ尽くした認識ではありましたが、やっぱり探すとまだまだいろんな場所でいろんな物語があるもんですね。

この台湾亭という建物、無人開放されているだけな状態なので、この歴史が多くの方に伝わるようになれば良いけどな。

以前、自らの命を投げ出してバスの乗客の命を守った長崎県の鬼塚道男さんの話を記事にしましたが、慰霊碑だけがひっそりと建っているだけではあるが、知られざる凄い話ってたくさんあると思うんですよね。

まだまだ、そんな話を探す冒険はこれからも続きそうだ。。

参考文献

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詳細・地図

住所 神奈川県大和市上草柳
開園時間 09:00~16:00
入園料 無料
閉園日 月曜日(月曜が祝祭日の場合はその翌日)、年末年始(12/29~1/3)
駐車場 無料
電話番号 046-263-8711(グリーンアップセンター)
アクセス JR本庄駅から車で15分ほど
リンク/span> JR本庄駅から車で15分ほど

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コメント

  1. s より:

    相鉄の廃線、いまは撤去工事が行われています

  2. Shira より:

    ご紹介ありがとうございます。
    2021年についに引き込み線が片付けられて整地されつつあります。私のカーナビゲーションはあいかわらず「まもなく踏切です」と言ってますが…。

  3. 座間市在住者AK より:

    私は日本語教師で、最近台湾のビジネスパーソンに日本語を教えています。この話題の場所の近隣に住んでいることもあり、ご作成のサイトに掲載された記事・社員を台湾の受講生にレッスンで見せたいのですが、ご許可いただけますでしょうか。

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