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一楽旅館の歴史を取材した!
旅館の内部を紹介したところで、今度は一楽旅館の背景に迫っていきたいと思います。一楽旅館に来る前には、広島県立図書館に行って周辺の住宅地図やら多少の資料をコピーしていたので、その辺の資料を用いながら女将さんに話を伺いました!!
二時間近く話を伺ったので、その辺で得た話を以下で放出したいと思います。
戦後に誕生した一楽旅館
太平洋戦争の終戦間近、1945年8月6日には周知のように広島に原爆が投下。広島の中心部は焦土と化したわけですが、一楽旅館の付近にあった遊郭もこのときに消え失せてしまったそうです。
その後の1950年に一楽旅館は誕生。始めたのは、今の女将さんのお母さん。遊廓という制度は1946年の公娼制度廃止によって終焉を迎えたため、この旅館はもともとは赤線時代にできた特殊飲食店だったようです。
上の写真に写っている建物は、1950年当時のままとのこと。
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ところが、現在の一楽旅館は拡張していて、上の写真のように二つの建物が合体したような作りになっています。拡張した左側(現在の入り口部分)の建物は1958年頃に竣工したそうです。ちょうど、売春防止法が成立して赤線や青線が廃止になった時期ですね。
1958年に新しい建物が竣工した当時は、入り口も現在の場所ではなく上の写真で示した場所にあったとか。
働いていたお姉さんは家族同然!
続いては赤線時代に一楽にいたお姉さんたちについて。おかみさんの記憶ではお姉さんたちは九州の方から来た方が多かったと記憶しているという。
遊廓というと、東北の貧しい農家の娘が売られてきたり、場所によっては遊廓の中にお仕置き部屋があって餓死した遺体を周辺に捨てたとかかなり厳しい話が出てくることがあるものの、一楽ではそんなえげつないような話はなかったそうです。
お姉さん達はそれぞれの部屋で商売をしており、ここに一緒に住んでいたという。ご飯も一緒に食べたりしていて家族のように一緒に過ごしており、時には一緒に花見に行ったりよく遊んでくれていたそうです。
取材をしているさなか、女将さんから赤線時代に一楽で働いていたお姉さんたちの写真も見せていただきました(写真には撮ってナイヨ!)。
中にはすごく美人な方もいらっしゃいましたが、美人な方は引き抜きがあり途中でいなくなってしまったとか・・。
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売春防止法後は連れ込み旅館に
1958年に完全施行された売春防止法の後、全国の赤線と青線は廃止になりました。多くの遊廓だった建物は、その特性をそのままいかせる形態として旅館やアパートなどに転業していくことになります。
一楽も「一楽旅館」として旅館になるものの、当初は連れ込み旅館という形態になっていたそうです。いわゆる、今でいうラブホテルのようなもの。この時はお客さんが多く、連れ込み旅館時代はすごく儲かったそうな。
今でも、一楽旅館の周辺には、近くに歓楽街があるということもありラブホテルが沢山建ってますが、中には連れ込み旅館の屋号がそのまま残ったホテルも。一楽以外にも多くの連れ込み旅館があり、その歴史が今でも残っているわけです。
ここは、今でも現役で夜になるとポン引きのおばあちゃんが現れますし。。
廃業寸前を切り抜けた!
ただし、そんな連れ込み旅館の形態は警察の目もあって長く続けることができず、その後は職人さんが長期で泊まることができる旅館になったそうです。
この時期は高度経済成長期にも入った時代ということもあり、職人さんの仕事も溢れていたことから職人さんを泊めるだけで旅館を維持できたんでしょうかね。
しかし、時代の流れからそのような職人が10年近く前から減っていき、普通の旅行客も泊めるように方針を変えたそうです。ところが、大まかな集客ができているわけではなくお客がなかなか来ない。。
その時は、もう税金を払うのも厳しくなり「もう旅館をたたむしかないのか・・」という話にもなったそうです。。
そこで、一年間だけ宿・ホテル予約サイトの『じゃらん.net』に掲載してみたそうなんですね。すると、ここは宿泊費が安く歓楽街に近いため飲みに行く人にも便利ということもあり、わりとお客さんが来るようになってきとのこと!
そのお客さんがリピーターになってくれたり、宣伝してくれたりで何とか営業が続けられるまでになったとのこと。つまり、じゃらん.netがこの旅館を救ったと言っても過言ではないってことっすね!ネット予約の効果ってすごいんですな〜〜!!
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現在はバンドマン客が多い
現在はというと、普通の旅行客はもちろん、遊廓跡を周っているという私みたいな人間が月に一人か二人くらいは来るとのこと。中には、山口県萩市にある元遊郭旅館『芳和荘』とセットで泊まる方もいるという。ビジネス客や外国人客はほとんどいないようです。
その他にはライブハウスを使う音楽関係の方が多いとのこと。この旅館はチェックアウトが昼の12:00と遅めであることもあり、夜遅くに帰ってくることが多い彼らにとっては都合がいいらしい。
あと、これは私の感想ですが女将さんがすごく親切でアットホームな雰囲気なので、リピーターの方は多いんだろうな〜という印象。
ちょっと関係ない話になりますが、こういう旅館に行くといわゆるチェーン店のホテルだったり、そういう旅館には泊まりたいと思わなくなりますわ。私は飲食店でも旅館でもやっぱり現地の方と語り合ったりするのが好きなので、個人でやっている所が本当に良い。
チェーン店とかも、極力金をかけないで安く便利ではあるんですけど、人間味がなさすぎなんですよね。時代の流れでそういうのが消えて行くのは仕方ないんですが、そういうのが少ない現在だと、特に人間味のある旅館の良さってのがすごくよくわかる気がする。。
と、はたから言ってもこういう旅館って維持するのが本当に大変なんですよね。本当に維持している女将さんたちには頭が下がります。。
一楽旅館は元遊廓ではない!
最後にこのテーマについて触れたいと思います。他の何かの記事で「元遊郭だった一楽旅館・・」という内容を見たことがあるため、一応書いておこうかと!
タイトルにも「元遊廓」とは書かずに「元遊廓風」とちょっとぼかしてるのはこの背景があるからなわけですが、一楽旅館は遊廓だった建物ではないんですね。
それは一楽旅館が誕生した年月でわかるんですが、一楽旅館が営業を開始したのは1950年のこと。先ほども書いたように、広島というと太平洋戦争の終盤で原子爆弾が落とされたことによって街が焦土と化し、一楽旅館がある平塚町や遊郭があった弥生町も建物が焼けて消え失せたとのこと。
そもそも、遊廓とは公的に売春が認められた施設のこと。「公的に」ということで、警察から許可が出ているわけです。警察はどの場所に何軒営業しているかを把握しているため、県の統計所などを見ればその数がわかるわけです。
その公娼制度が認められていたのは戦後の1946年まで。その後は、公娼制度が廃止されたものの、それだけでは風紀の乱れを防ぎきれずなどの背景から赤線(公的に特殊飲食店の出店が認められた地域)や青線(モグリで売春が行われていた地域)が誕生することになります。
赤線地帯では、遊廓→特殊飲食店となったケースが多く、特殊飲食店は売春OKと表向きではしていないものの見過ごしていたと言われている形態のお店。
とりあえずは、「一楽旅館は遊廓だった歴史はなく戦後の特殊飲食店のような形態だった」と思っておけば大丈夫かと思います。
おわりに
今回、女将さんから二時間近くにわたって取材させていただきましたが、本当にアットホームな雰囲気で宿泊しやすい旅館でした!
女将さんからは本当にたくさんのことを聞かせていただきました。この記事に載せた以外にもまだまだ話はあるのですが、「あんまり突っ込んだ話は載せないでね」とのことだったので、いくからの内容は私の判断でカットしてあります。
女将さんは、「まだ宿泊してくれるお客さんがいる限りは営業を続けていく」とおっしゃっていただので、そうすぐには廃業にはならないと思いますが、気になった方は早めに行ってみてくださいね(*’▽’)
参考文献
詳細・地図
住所 | 広島県広島市中区西平塚町2-19 |
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駐車場 | 無料(4台ほど) |
電話番号 | 082-244-2028 |
アクセス | ・広島駅南口から徒歩で20分ほど ・東雲(しののめ)I.Cより車で7分ほど |
リンク | https://www.1-raku.jp/ |