庭には本物の信号機も!静岡県にある「由比あかりの博物館」で灯りの歴史を学んだ!

↑更新・取材裏情報はTwitterにて(^ ^)
日本中のマイナーなスポットに焦点を当てて、その歴史や背景などを発掘しまくっている本ブログ!今回は、静岡県にある「灯り」に関して学ぶことができるという由比あかりの博物館に行ってきました。
ここ、本当にマイナーでたまたま発見したスポットなのですが、「あまりお客さんがいなくてじっくり館長の方から話が聞ける」という条件にピッタリ当てはまっていそうなスポットなので行ってみたのですが、大当たりでした!!
灯りの歴史を学べただけでなく、実際に火打ち石を使って火を起こしたりとちょっと珍スポット的な要素も含んでいたりとても面白い博物館だったので、その一部始終を以下で放出したいと思います!!
本記事のポイント

・実際に火打石を使って、火をつける体験が出来る
・電気工事をしていた関係で、庭に本物の信号機まで置いてある
・館長のお母さんが気さくで、灯りの歴史に関して丁寧に教えてくれる!

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風情ある博物館に、いざ潜入!

 
▲由比あかりの博物館の外観
今回、由比あかりの博物館を訪れたのは2018年のゴールデンウィークの時。本来は関西取材遠征に出かけたわけなのですが、私が住む神奈川県から静岡県の由比は通過点であるので寄ったという感じですな!!
ちなみに、いつもは一人で行動しているのですが今回は中学時代の卓球部の後輩がついてきたので、2人での訪問になりました(*’▽’)
博物館を管理しているお母さんは、ここで暮らしているわけではないので来る際に遅れる場合があるんですね。これは、私設の博物館ならでわというか、別にこんくらいでいいですよ!
▲少し時代を遡ったような雰囲気の館内
そして中はというとこんな感じです。中央には、あかりに関していろいろ体験できるスペースが用意されており、その周囲にはかつて我々の先人たちが使用していた灯りの道具が並べられています。大人だけでなく、体験もできるので子供の学習にもいかせやすいとても有意義な博物館ですね!

由比あかりの博物館とは!?

▲博物館の館長であるお母さん
もともとは、電気工事・修理関係の仕事をしていたそうで、そのあとにいろいろと集めてきて平成8年に博物館を開いたとのこと。以前まではお母さんの夫が館長をしていたようですが、お父さんが亡くなったことから、お母さんが引き継ぐことになったとのこと。
ちなみに、この博物館はお母さんが動けなくなったら閉めてしまう予定とのこと。後世に残したい博物館ではあるものの、後継問題はどこも問題になっており日本の文化が廃れていくのはもはや時間の問題か・・。
ちなみに、この博物館は最寄りの由比駅から歩いて10分程度の場所。ただし、駅からここに来る場合は坂を登ってくる必要があります。ありがたき、励まし!!

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あかりの歴史を学ぶぜ!

では、灯りの歴史はどのような経緯を経て今に至るかを簡単に説明していくことにしましょう!由比あかりの博物館内には、灯りの歴史が反時計回りで時系列に展示されているのです。今の時代を生きる人は電気で十分に灯りを確保できているわけですが、今まで先人たちがどんな道具を使って今まで灯りを得ていたかは、そんなに学ぶ機会もないですもんね。。
今ではただスイッチを入れるだけで、ほぼ労力はゼロですが昔の先人は色々な知恵を絞って灯りを得ているだけではなく道具にも工夫を凝らしていたのですよ!
文章だとわかりづらいので時系列でまとめました(めっちゃおおよそですがww( ;∀;))。よく、先を尖らせた木の棒でグリグリ擦って火をおこす様子を見たことがあると思いますが、それは飛鳥時代から奈良時代あたりまでのようです。奈良時代からは中国からろうそくが入ってきて、今現在までろうそくが使われるようになります。
といっても、今現在はろうそくは灯りのためというよりかは仏壇で使われたりすることがほとんどだと思いますが。。こうして時系列でみてみると、飛鳥時代と奈良時代の境目と開港を境に灯りの歴史は大きく変わっているようです。
開港の方は、西洋などの文化が日本になだれ込んできたことで、灯りだけでなく日本人の生活は大きく変化した関係です。一方、飛鳥時代と奈良時代の境目辺りでは、おそらくですが遣隋使や遣唐使が関係していると思います。この時代に、中国大陸との交流を持ったことで、その文化を用いてきたことが、灯りの歴史に大きな変化をもたらしたと思われます。
では、以下では「ろうそく→石油ランプ→ガス灯→電球・蛍光灯」と、簡単ではありますが時系列に沿って学んでいくことにしましょう!

奈良時代辺りからはろうそくが使われた

▲蜜蝋を原料として作られたろうそく
ろうそくは今現在はパラフィンで作られていますが、当初は蜜蝋(みつろう)を用いて作られていました。ハチミツに遠心をかけて蜜を取り除いた後に残るのが蜜蝋になるのです。このろうそくは、煤(すす)が出なく香りが良いんだそうですよ!
ちなみに、蜜蝋は今現在は化粧品やクレヨン、さらには工作粘土などに使われているそうです。
ろうそくというのは、今ではコンビニですら買えるものですが、江戸時代はとっても高価な代物だったのです。当時は、神社仏閣などのお金のある人でしか使うことが出来ず、一般人は一年に一回程度しか使うことが出来なかったんですって!
蜜蝋の後に使われたのがハゼの実でした。この実を細かく砕いた後に蒸してろうの部分を用いてろうそくを作っていたんだそうです。こんな実がろうそくになるなんて想像できませんな~。
ただし、これらのろうそくは量産するのが難しかったので生産数が少なかったというのも高価だった原因の一つでした。そして、日米修好通商条約によって開港した日本では西洋ろうそくが作られるようになります
西洋ろうそくは、パラフィンという石油を起源とした原料を使っていました。今現在もこのパラフィンが使われています。ちなみに、火をつける部分はタコ糸です!!

戦後も庶民の背活を支えた石油ランプ

江戸時代まではろうそくの灯りに頼っていた日本人。そんな日本が開国をして外国人が押し寄せるようになった日本には、西洋などの文化が一気になだれ込んでくるようになりました。そんな西洋文化に感化されて日本人の生活に取り入れられるようになってくるわけですが、それは「灯り」という観点でも多くの影響があったのです。
まずは石油ランプ。実際にはもっと以前から日本で使用はされていたようですが、多くの人が使い始めたのは戦後からとのこと。
▲華麗な装飾の石油ランプ
石油ランプは、ろうそくの灯りに比べてより明るさが増すだけでなく、その華麗な装飾が多くの方を引き付けたという。ただ、これらの石油ランプが一般庶民が買えるようになったのは1872年以降のことだという。
開港当時は、一部の富豪や横浜遊廓の中でも外国人を相手にしていた岩亀楼や金瓶大黒楼などの妓楼(ぎろう)くらいだったそうです。その後は雑貨屋などでもランプが売られるようになり、日露戦争後にはランプの全盛時代を迎えたようです。
私がいろいろな場所に取材に行く際も、石油ランプの話が出てくることがありました。戦後しばらく経っても、電気が引かれていない地域に住んでいた方は石油ランプによって灯りを得ていたようなんですね。

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ガス灯も、開港を機に誕生

▲馬車道に建っている「ガス塔発祥の碑」
続いてはガスですね!ガス灯は、1859年に開港した横浜から歴史は始まりました。かつて閑静な漁村だった横浜に外国人が押し寄せて一気に栄えた横浜。そんな横浜の馬車道にガス灯が灯ったのは1872年のことでした。横浜では、高島嘉右衛門がガス事業を開始しましたが、そんな横浜に送られること2年、今度は銀座通りに86基ものガス灯が灯ることに。
この頃のガス灯は、無人でもちゃんと灯りがつくような作りにはなっていませんでした。当時は点消方(てんしょうかた)という人が、天下棒を持ってガスが弱く噴き出すガス灯に火をつけることによって点灯されていました。逆に、朝に灯りを消すことも点消方の仕事でした。
▲埼玉県の深谷駅にある渋沢栄一像
その後、明治の始めには東京府(今の東京都)がガス事業を行っていましたが、1885年に民間の東京ガスが誕生したのです。創業したのは、超有名実業家である渋沢栄一でした。
渋沢栄一の故郷は、埼玉県の深谷市でした。今も、レンガ造りの深谷駅前には渋沢栄一の銅像が建っております。彼は、日本初の銀行の頭取になっただけでなく、500近くもの会社の創業に携わる超人だったんですね。
ガス灯が街に灯るようになった頃は、まだ庶民の灯りとしては行灯(あんどん)やろうそくが使われていたんですね。ただガス灯は石油ランプと時代が被っていたので、どちらがどの程度使われていたかなどこの辺はもっと調べる余地があるとは思いますが、あんまり庶民がガス灯の灯りを使っているってイメージはそんなにないんですがどうなんでしょうね??
奈良県の元遊郭の建物である、洞泉寺遊郭跡にある旧川本家とかではガス灯が残っていたのを見たこととかはありますけどね。。

電球・蛍光灯が使われるようになる

そして、今現在でも使われている電球や蛍光灯が登場するわけです。今ではスイッチを入れるだけで電気がつくわけですが、歴史をたどるとこのような事に気を使わなくていい便利な時代になったと感じるわけです!
▲石清水八幡宮に建っている「エジソン記念碑」
そして電球、いや白熱電球といえばエジソンが出てくるわけですが、彼にとって日本という国は切っても切れない関係があるのです。一体なんのことかというと、エジソンが白熱電球を作成するために使用していたフィラメントは、京都の石清水八幡宮にある竹だったんですな。
今現在も石清水八幡宮の竹藪の前には、1934年に建立されたエジソン記念碑が建てられています。この記念碑には、エジソンの娘さんがお越しになられただけでなく、今現在もエジソンの誕生日(2月11日)には生誕祭が開かれ、命日(10月18日)にはエジソン碑前祭が行われているのです。
こちらです!この竹が、炭素発熱電球の実用化に大きな役目を果たしたのです。といっても、エジソンはあっさりこの竹に辿り着いたわけではなく、6,000種類近くものいろいろな材料を試した後にこの竹に辿り着いたとのこと。
あまり詳しい話はしませんが、白熱電球を作る際には燃焼させて光を放つフィラメントの部分の材料に困ったんですね。要は、燃焼時間が持続する素材がなかったのです。そこで6,000種類近くいろいろなものを試した挙句(あげく)、この竹に辿り着いたわけです!!
と、こんな感じですんごく簡単にですが灯りの歴史を振り返りました!実際に、博物館に訪問すると、お母さんがその辺の歴史を丁寧に教えてくれますよ!!

君は、火打石から火をつけられるか?

今の時代は、お湯を沸かす際もタバコを吸う時も、ガスコンロやライターがあるため簡単に火をおこすことができますが、もちろん昔はそんなものはなかったわけなので火打石を使って火をおこしていた時代があるわけです。
そんなわけで、ここでは火打石を使ってどんな感じで火を起こすのかを紹介していきます。といっても、工程はいたって少なくシンプルです!!

1. 火打石を鉄にぶつけて火花を作る

まずは、これですね。火打石を鉄にあてて火花を発生させます!これ、誰でもできると思いきや結構難しいんですよ!ただ火打石を鉄に当てるだけではなく、角度や当て方などにコツがいるのです。
私の後輩が何度も火の粉を落とそうとするのですが、いくらやってもなかなか火花が発生しない。。ちなみに、火花の温度は約800度。熱いっすね。

↑これは、神奈川県にある「江戸民具街道」という博物館の館長さんが火花を発生させる様子ですが、さすがの一言です!!簡単そうに見えますが、見た目以上にムズイのですぞ!!

2. 火の粉を炭片に落として炭を燃やす

前回の工程で火の粉を発生させる必要があるわけですが、ただ火の粉を出すだけでは火をおこすことはできないわけです。写真の真ん中には、木箱が写っていますがこの中には炭を薄くスライスした炭片がたくさん敷かれています。
炭もただの炭では火が付きにくいので、薄くスライスして燃焼が持続しやすいようにしています。火打石で火の粉をおこした後は、火の粉をこの炭片の海に落っことして炭に火をつけなくてはいけないわけです。
お母さんは、わずか数秒でこの荒業をやってのけるんですね。さすがっす!

3. 炭片に火が付いたら紙を当てて燃やす

そして、隅に火が付いたら、その火にこちらの紙を当てると紙が点火します。こんな感じで火をおこしていたようです。
よく歴史マンガとかで、火打石をカチンと当てるだけで火をおこす様子とかを見たことがある方がいるかもしれませんが、それだけでは火をおこすことはできません。
▲ずっと火付けに夢中になっている後輩
しかし、私の中学の後輩はお母さんのように上手く火がつけられないようで、私がお母さんに博物館に関しての聞き込みをしているときも、必死こいて火付け練習をしておりました。
ただ、最終的にはこの後に彼もお母さんのように無事に火をつけることが出来ました!めでたし、めでたし。
続きはこちら!超珍光景、中庭に実物の信号機が現れた!
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