今回の記事は、またまた老舗旅館に関する記事になります。
そしてその舞台は神奈川県の江の島。今や若者を中心に、誰もが知る有名観光地となった江の島ですが、ここはもう本当に多くの歴史がある私的にはネタの宝庫でたまらない場所なんですが、ココには創業なんと400年ほどにもある超老舗旅館なんですね。
江の島の旅館というと、今では岩本楼の方が名が通っているかもしれないですが、この恵比寿屋という旅館もなかなか調べ買いがあると思って宿泊&調査してきたので、旅館の紹介とその歴史を以下でまとめたいと思います!
念願の恵比寿屋へ宿泊!
神奈川県を代表する観光地である江の島。
その歴史は大変古く、源頼朝が文覚上人に命じて、竹生島から勧請したという弁財天による弁財天信仰など多くの歴史を秘めた場所でもあります。
江の島は現在に限らず、江戸時代中期ごろは社会が安定して江戸庶民も観光する余裕が生まれた時代だったため、多くの方がこの江の島へと足を運ぶ江島詣が盛んだったんですね。
そんな江戸庶民が江の島を訪れた歴史については、上の記事にまとめているので、ぜひ読んでみて下さいね~!
橋を渡るさなか、こんな光景が目に飛び込んでくるんですよね。「ゑびすや」の文字、なかなか斬新な光景なので「あ~見たことある!」って思う方もいるのではないでしょうか?
弁天橋を渡って島内に入ると、こんな青銅鳥居が姿を現します!
多くの方が素通りするこの鳥居は、品川宿から寄進者の方々が歩いて運んだもの。吉原遊郭や浅草の方々など、江の島を信仰していた弁天講の方々の名が刻まれており、この辺は後で詳しく説明したいと思います!
その鳥居をくぐり、ちょっと進むと右手に現れるのが今回のターゲットである恵比寿屋です。鎌倉もそうですけど、江の島って東京周辺から日帰りで来れるので、あんま泊まる場所ってイメージする方は多くないかもしれないんですよね。
ちなみに、私だって余裕で帰れますが、距離の問題ではなく泊まりたかったから泊まったって感じですしww
こちら入り口。
建物は新しく近代的なものの、入り口に掲げられている「恵比寿樓」と書かれた木の看板との時代差が凄いっすね!
入ってすぐに受付を済ませ、部屋へと向かいます。
ラウンジも大変綺麗。
私が泊まる部屋は四階。エレベーターで上がり廊下を進む。
で、ココが私が泊まった部屋っすね!
創業四百年のままだったらすさまじい建物になっていたと思いますが、建物自体はこんな感じでだいぶ近代的です。そもそも、恵比寿屋は関東大震災などで大火災も経験しており、その度に建て直し、増築を重ねて現在に至ります。
ではでは、そんな恵比寿屋にはいったいどんな歴史があって今に至るのか。江の島の歴史と合わせて、あくまで私が調べた限りの情報でありますが以下で紹介しますね~~!
恵比寿屋の始まりに残る謎
江ノ島には、源頼朝が文覚上人に命じたことによって勧請したことにより弁財天信仰の場所として知られることになります。この勧請には、江の島は鎌倉幕府を創設するにあたり海上交通の要所だったから鎌倉幕府の守護神として祀りたかったなどいろんな説があります。今も、江島神社は日本三大弁財天(他は、厳島神社、竹生島)の一つにも数えられていますね。
とはいうものの、昔の江の島は現在とはだいぶ形態が異なります。今は江の島に三つの神社があり、それぞれ辺津宮、中津宮、奥津宮となっています。ただ、これらは明治時代に行われた神仏分離以降の話。
その前は江ノ島には室町初期に成立した三つのお寺(下之坊、上之坊、岩本院)があり、それぞれが下之宮、上之宮、岩屋本宮を管理していました。
そう「江の島=神社」というイメージが今は強いかと思いますが、元々は三つのお寺があったというわけっす。
『江島詣』という書籍にその辺の内容が詳しく書かれていますが、 明治時代になると神仏分離、そして廃仏毀釈がおこったことから江ノ島から仏教要素が排除されて各宮が「下之宮→辺津宮」「上之宮→中津宮」「本宮→奥津宮」になり、この三か所を総称して江島神社が誕生することになります。
今でも鳥居とか祠とか色々残されていますが、今よりもっと仏教要素満載だった江の島。弁財天に関係のある仁王門、三重塔などいろんな物がひたすらぶっ壊されまくったわけです。まぁこれは江ノ島に限った話ではないですけどね。。
そして岩本坊はその廃仏毀釈の動きによって、お寺から旅館に転業して、現在も続く岩本楼となっているわけです。
ここは、一年前くらいに宿泊して記事にしているので、よければ読んでみてくださいね〜〜!ここもいい旅館っすよ!
岩本坊→岩本楼の流れは資料でも見受けられるのですが、恵比寿屋と下之坊に関して書かれた資料は見つかっていません。岩本楼と同じように、下之坊が廃仏毀釈により「下之坊→恵比寿樓となった」と考えられれば話は早いんですが、実はそうでもないようなんですね。。
というのも、恵比寿屋はタイトルにもあるように創業は江戸初期であり400年ほどの歴史がある旅館なんです。東京商工リサーチによれば、恵比寿屋の創業は1615年。廃仏毀釈は明治の初めに行われたので、明治の始めに「下之坊→恵比寿樓」となったと考えると、「いやいや、恵比寿屋はすでに江戸初期に開業してまっせ!」となるわけです。
この辺の背景はいったいどうなっているのか?
江戸時代は、下之坊のそばに恵比寿屋(下之坊と恵比寿屋は別々の関係)が開業し、廃仏毀釈で下之坊が廃業し、その場所を全部恵比寿屋が買い取ったのか。それとも、下之坊の敷地内に恵比寿屋(下之坊と恵比寿屋は同じ人、あるいは親戚関係など)を開業し、坊が廃止になったからその場所全部を旅館にしたのか。。
その辺の正確な歴史は定かではないというか、確証が得られる証言や資料は見つかっていません。。
とはいえ、場所的には下之坊の場所に恵比寿屋があるのは間違いないんすよね。
恵比寿屋の方に聞いてもその辺は不明らしく、館内にあった資料によると、創業当時のことを記したものは見られませんでした。とはいえ、江戸時代末期から明治の初めにかけての当主十五代ゑびすや屋茂八に関しての記述は見つかっていて、彼は静岡で設立された、現在の旅館組合の役割を持つ一新講社のリーダーだったそうです。
一新講はその後、大いに発展して全国的になってきたものの、鉄道の開通に伴って駅前旅館が発達するとともに、街道筋の旅館はにわかに衰微しはじめ、汽車の通じていない地方の古風な旅館の組合として息をつないでいたようです。
しかし、当時の交通不便な街道を旅行する上に、誰もが安心して旅宿できる、こうした旅宿組合の制度をつくった茂八の並々ならぬ才覚と先見性は、大変なものだったみたいっす。
そんな明治の始めの頃から時代をすっ飛ばし、大正から昭和初期にかけての時代には、江の島は一大観光地として繁栄し、島の旅館は設備に内装にと贅を尽くしたそうです。
とはいうものの、関東大震災後、昭和18年の火災と、恵比寿屋は二度も全焼。ぞれでもめげず立ち直り、翌年には道路に面して食堂を造ったり、順次客室も増築したりして維持してきたことで、今までその歴史をつないでいます。
それだけ歴史があるということで著名人の訪問も多く、十六代の政康の時代には、伊藤博文、木戸孝允、井上馨、曾根荒介など明治の元勲たちがよく来遊したことがあり、これらの書もたくさん残されているとか。
恵比寿屋と遊郭
江戸時代の中期以降、江戸庶民にも旅行する余裕が生まれたことから、多くの江戸庶民が江の島へと訪れました。とはいえ、それはただ観光に来るというわけではなくお伊勢参りのような信仰を兼ねての旅行だったんですね。
先ほど紹介した青銅鳥居は、そんな江ノ島の下之宮を篤く信仰していた吉原弁天講の方々が奉納した鳥居です。
この鳥居には、そんな吉原や浅草の方々の痕跡が残されているんですよね!
こんな感じで、「原吉新」の文字が見えるほか、個人の名前も細か~く残されています。
花魁などの名も刻まれていますが、ここには江戸の名店として名を馳せた八百善の八百屋善四郎の名もあります。紆余曲折あり、現在は鎌倉で営業を続けているんですよね~~。
さらには、辺津宮の麓にある江の島エスカー入り口付近の碑にも、新吉原の方々から寄進された碑が建っています。
こんな感じで、江の島には吉原の方々が信仰していた痕跡が残されているんですが、江の島というか恵比寿屋と関わりがあると思われる下之坊が管理していた下之宮を信仰していたわけです。
↓そんな江ノ島と吉原については、以下の記事にまとめているので良ければこちらも読んでいただければ嬉しいっす(*´▽`*)
さらに、恵比寿屋には静岡県二丁町にあった遊廓とも関りがあるみたいなんですね。
静岡県の静岡市にあった二丁町遊廓。東京の吉原遊廓は二丁町の方々が一部移転したことがキッカケであることもあるわけですが、
この二丁町遊廓には「蓬莱楼」という妓楼があったようなんですが、この蓬莱楼が恵比寿屋と関わりがあるようなんです。
それは、十八代目の永野清氏。彼は、十六代目政康の次男重吉の二番の子でした。んで、父である重吉が経営していたのが二丁町遊郭の蓬莱楼だったそうなんです。とはいうものの、永野清氏は、蓬莱楼を継がず大正九年に江ノ島にやって来て、21歳のときに恵比寿屋・十八代を継いだんだそうです。
となると、蓬莱楼を継いだのは長男だったんでしょうか?
この辺の家系図がどうなっているのかが詳しくわかんないので、私も全体像がつかめてないのですが、とにかく整理すると、「十八代目の永野清氏の父親は二丁町遊廓にあった蓬莱楼を経営していた」 ということです。
恵比寿屋にあった資料には、蓬莱楼に関する記述はこのくらいしかありませんでした。逆に、二丁町遊廓を調べてみると何か新しい発見があるんですかね。。
恵比寿屋とモース博士
京浜東北線に乗車していた際、たまたま大森貝塚を発見したことで超有名人となっているモース博士。学校の日本史でも皆さん習いましたよね!
もはや「モース博士=大森貝塚」というイメージが強いわけですが、そもそも彼が日本にやってきた理由は腕足類、いわゆる貝類の研究のためでした。そのモース博士が、江の島に臨海研究所を作って貝の研究をしていたということは、あまり知られてないかもしれないですね。
その場所がココ!
碑の背後にある建物は恵比寿屋の建物であるように、モース博士が設けた臨海実験所は恵比寿屋の敷地内にあったようです。
それは、1日30銭の家賃で借りた網小屋を改造した建物であり、東京のガラス工場で作らせたガラスの壺、銅罐、小桶、アルコール箱が用意され、区分けされた標本類を保存することができました。
で、何でモース博士がココに実験所を設けたのかというと・・
これです、このシャミセン貝が目的だったのです!
海に囲まれた江の島は海の生物、特に貝類が豊富でした。モース博士は、この江ノ島に生息するシャミセン貝に目をつけ、江ノ島にやってくることになります。その際、恵比寿屋の敷地内に臨海実験所(海辺にあり各種の海産動植物の研究を行う施設)を作ります。
この場所を基地として、船を使って網を曳き、多くの生物を採集していたようです。
そして六週間に及ぶ充実した生活を終えたあと、モース博士は東京大学で動物学、生理学の講義を始めることになるのです。
恵比寿屋と歌舞伎
あと、恵比寿屋にはかつて歌舞伎関係の方々のお客さんが多かったそうです。そもそも、江の島に祀られている弁財天は、技芸の上達に御利益が大きいとされているから歌舞伎にかかわりが深く、江の島が舞台となるなど関連する演目はいくつもあります。
島内には歌舞伎関係者の奉納品も多く、中津宮の参道には市村座と中村座奉納の石灯篭が残されています。
恵比寿屋では、十六代目の方が五代目尾上菊五郎と付き合いがあったことから、旅館にはその一門が出入りしていたなんてこともあったようです。
ではでは、ちょっと記事が長くなってきたので、ここで一旦ページを区切ることにしますか!
恵比寿屋の背景とか歴史はざっくりとは紹介できたかと思いますが、続いては館内にある博物館、あとは洞窟などを紹介したいと思います。